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東京に戻ってきた。

東京に戻ってきた。

この1週間、東京から離れて色々な事を考えた。父親の遺影を見ながら、何が心残りだったのか?自分ならあの状態で病院で心配事だらけで息を引き取ったら何を最期に思ったのか。もう「近くにいながら何やってたんだ!」と通夜の席で弟に詰め寄った感情もない、
現実があるのだから。

私の父親の記憶は、まだ居間に囲炉裏があった頃多分4歳か5歳?三交代の父親がラムネ菓子が袋いっぱいに入ったものを買ってきてくれた。おそらく2時から10時の二交代のあとだ。今思うと高価なお土産だっただろう。嬉しかった。それを母親が「続かないんだからやめて」と父親に言っていた(笑)

皆んな、自分たちの生活でいっぱいいっぱいなのは今も昔も変わらない。今私がAmazonで買い物をすると妻に怒られるのと何ら変わりはない。

その後、私は故郷には就職がなく広島に出て行った。両親は応援してくれた。今我々がうちの長男に思うのと同じように。「時代が変わる、好きなように生きなさい」そう母親は言ってくれた。

私はそれからこれまで、波瀾万丈の人生を送ってきた。ダメな時も、良い時も、両親は何も言わず応援してくれた。

父親が定年した日、花束をもらって会社を後にする写真。私も当時の父親のその日まであと二、三年だ。何を思って、何をしたかったのだろう?両親はケンカばかりしていたが、父親は定年後も働いていて生き生きしていた。パソコン教室にも行ってもらい「すごいな!」と、それを生きがいにしてもらっていた。

まだまだ、両親の思いを自分たちの子供に託すほど明確な答えはない。我々にできる事は、実態のない父親と父親に繋がる祖先を大事にしていく事だ。方法はわからない。昔のように菩提寺にたくさんの寄付をするのが供養になるのか、今はもう違う形なのか?まだ結論は出せていない。

今日、弁護士さんともう時間切れだと、最終の打ち合わせをした。父親もこの状況は望んでいないのだから、500万円の使途不明金をなんらかの形で相殺して母親に戻すよう合意した。当たり前の話だ。

実家の維持費、母親の支援、コロナで母親にしてあげたい事が思うようにできないなか、反面弟家族が全く気にしていない、実家の維持、母親の幸せ、金銭的なものだけではない。母親の様子を信頼できるケアマネさんにお聞きして、母親がいちばん楽な道を試行錯誤している段階だ。

これから大変な負担を我々だけが考えていて、あれだけ「近くにいるのがどれだけ大変かわかってないでしょう!」と言い放った弟家族には色々言いたいことがあるが実際に自分たちの生活を犠牲にしてまで何かをする事もこれまでなかったから、母親の事などすでに弟夫婦にの頭の中にはないのだろう。弟が独身時代1年に一回あるかないかの電話しかないと父親はボヤいていた。それは弟夫婦にも伝えた。

要するに、「親の援助」ありきの人生を送ってきたのだろう。容易に想像できる。父親の「お人好し」に調子に乗りすぎた事は突き詰めれば弁解できないだろう。

我々は年に3回、ゴールデンウィーク、夏休み、年末年始、年に延べ1ヶ月のコミュニケーションではあったが、それを感じていた。

私は、4年間念願の実家からの仕事を選択して両親としっかり話たが、散々世話になった弟家族の「愛情たっぷり」は感じていなかった。

そのうち、母親が認知症になりドミノ倒しのように色々なことが悪い方向に進んでいった。そして「親に会えない」というコロナの制約が出てきて地元の「過剰反応」が本来父親としっかりコミュニケーションを取るべき時期に邪魔をした。当然我々は抗議したが地元には受け入れられなかった。その数ヶ月後に地元にクラスターが出て認識は変わった。父親がいちばん辛い時だ。弟は通夜の席で「いや、コロナやから普通面会できんやろ?」と言った。

それを聞いて全て父親の話していた事を理解した。「コロナやから云々」と弟が言っている期間に何故わたしは問題児の関東から父親に何度も会っているのか?挙句、地元で様々なコミュニケーションを取っていると思っていた色々なところから請求書がきた。父親が地元にいる弟家族に期待していたもの、それが出来ていない。父親からそう聞かされた。ケアマネさんの配慮で「ギリギリ」会わせていただく機会をいただき、1時間ほど最後に父親と話せて本当に良かったと思っている。実態を知ることができたし父親の心配事が手にとるようにわかった。

弟が負担なく実家に住もうとしていた事は父親から直接聞いた。登記簿と実印を持ち出したことを父親は「何故そこまで話が飛ぶのかわからない」と言っていた。

今、実家の光熱費、維持費、固定資産税、今我々が実家の費用負担をしていることなど気にもしていないのだろう。「実家はパラダイス?(笑)」位に思っていたのだろう。弟夫婦にはもう何も期待していない。

弟が通夜で「喪服を撮りに行きたいから実家の鍵貸して」というくらいだから、言うほど父親に対して思いもなかったのだろう。義務を果たさず権利だけを主張する例のパターンだ。父親にはネガティブな話をしなかった。まさかそれが最後の会話になるとは思ってもいなかったから。

ただ、父親の預金を使い込まなければならない生活で、母親の年金から足りないものを負担する気も、実家の維持費を負担する事など考えてもいなかったのだろう。

自分の小遣いから払える金額ではない。月に数万円の実家の維持費が我々にかかっているのも知るよしもないだろう。ただ、父親が亡くなったら実家にタダで住める。その魂胆は父親も見抜いていた。母親の面倒を見るということは費用の負担も含め受ける事だ。

父親の一回忌の案内がお寺さんから届いた。いつまで「仕事が忙しい」で弁護士さんからの電話に出ないつもりなのか?(笑)

遺産相続の手続きをお願いしたので、今後時間がかかればかかるほど様々な費用が加算される事を事前に伝えてもらえるようにお願いした。それが現実なのだから。

初めての弁護士さんとのやりとりなのかもしれないが、こごまで世間知らずだとは想定外だった。「真性のアホ」なのだ。

これからは弁護士さんの対応も変わっていく。その位はせめて気づいてくれと思いつつ。

弁護士さん、調停、その後の裁判は理不尽な事があっても「仕事が忙しい」では通用せず理不尽な事ばかりを決められるのだから(笑)

若者なら仕方ないが、もう考え方価値観を変えるのは手遅れだろう。私もそうだ。

せめて両親が可愛がってきた孫の世代がまともに両親に恩返しをしてくれるだけで父親は満面の笑みで喜んでくれるはずだ。

気の長い話だが、私もそう考えて父親の無念をいつか晴らしたいと思う。

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by groupf | 2021-05-19 21:53 | 日記 | Trackback | Comments(0)

遠距離から実家の両親への恩を思う家族の記録。


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